haru_z1kのブログ

30年勤めた国家公務員を中途退職し、ボリビアで中山間地農業をやっていましたが、実家の事情で急きょ帰国しなければならない羽目に...。ボリビアには当分戻れそうにないので、これ以上ボケが進まないように、ニュースや生活の中から頭の体操をしていこうと考えています。

母が亡くなりました。

母が3月22日午前7時半に亡くなりました。享年87歳。

 

昭和5年に四国丸亀で漁師の娘として生まれ、北九州に嫁いで子供4人をもうけましたが、長男は生後数ヶ月で死亡。伴侶である父を45年前に亡くしてからは女手ひとつで私達姉弟3人を育ててくれました。

 

私は高専に入学すると同時に寮に入り、就職してからも全国異動で、数年に一度しか自宅に帰らず、そのうえ、中途退職してボリビアで中山間地農業を始めたりして、親孝行できたことと言えば赴任先に母親を招いて観光地めぐりしたことくらいでしょうか。

歴史や花が大好きだった母のお気に入りは、富良野、平泉、瑞巌寺徳川美術館、京都でした。

 

5年前にとある事件がきっかけで、ほとんど寝たきり状態になり、私が急きょ日本に帰国して家事を担当していたのですが、月1回〜2回のペースで日帰り温泉に連れて行ったり、食品は全てラベルを確認して年寄りの身体に良くないと考えられるものは購入しなかったり、淡口の味付けにしたりと、その努力が結ばれたのか、僅か1年程度で杖無しで歩ける程度に回復していました。

一昨年9月に姉が退職したのを機に家事を姉に任せ、現在の職場にアルバイトとして働き始めたのですが、昨年11月末に脳梗塞で倒れ、胆管癌が見つかり余命半年と診断されました。

黄疸も腹水も出ておらず、また、毎週通院して検査していたことから、医者の話だと癌が出来てから日が浅いということでしたが、レントゲンの陰は大きく、僅か数ヶ月程度とは思えませんでした。介護士の話だと陰は腫れている部分も白く映るので大きく見えるということでしたが、リンパにも転移しており、一昨年9月まで家事を担当していた私としては、複雑な気持ちです。

それでも一生懸命リハビリして1月上旬には退院して杖をついて歩ける程度にはなっていたのですが、私には何の相談もなく、姉と妹の判断で告知してしまいました。

その後は意気消沈してしまい、毎日古い写真を眺めている母の姿を見るのはとても辛い日々でした。

 

そして3月上旬再び脳梗塞で倒れた母は翌日から意識不明の状態となり、姉弟3人が見守る中、そのまま帰らぬ人となりました。

私にとって母の最後の言葉は「恥ずかしいから救急車なんか呼ぶな」でした。

母にとって私は、いつまでも、「国家公務員であった自慢の息子」だったらしく、通夜と葬儀に出席してくれた親戚には私が5年前に帰国していたことは内緒で通していたようです。

母を嘘つきにするわけにはいかないので、私は昨年10月末の甥っ子の結婚式で帰国したことにしましたが、最後の言葉といい「外面を気にする母らしい」と思わず苦笑してしまいました。

 

私も既に58歳。

しかし、幸いなことに、今の職場では同僚に恵まれ、期間を定めて目標を設定し、それを達成するための必要条件等の検証を行うことができ、私の知識と経験は充分に活かすことが出来るという自信も付きました。

(目標の1は昨年新しく入ってきたAさんをトップとして全員が頑張ったおかげてエリア一位を確保。私を雇用していただいた会長・社長への恩返しにもなったと考えています。目標の2はお客様への口の利き方を知らない年配のバイトさんのせいで、法人客が大量に流出してしまったため、達成不可能に。しかし、対処方法は明らかなので、いずれ達成可能と考えています。)

 

若い頃のバイクレースや交通事故で出来た怪我のせいか膝を中心に身体のあちこちが痛みますし、また、バカ姉の副流煙を5年近く吸い続けたせいか最近は変な咳や吐き気がしますが、2020年の東京オリンピックを期限として、もういちど民間企業で正社員として働いてみようかと考えています。