haru_z1kのブログ

30年勤めた国家公務員を中途退職し、ボリビアで中山間地農業をやっていましたが、実家の事情で急きょ帰国しなければならない羽目に...。ボリビアには当分戻れそうにないので、これ以上ボケが進まないように、ニュースや生活の中から頭の体操をしていこうと考えています。

母の初盆

早いもので母が3月22日に亡くなって49日が過ぎ、そして初盆が終了した。

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母は四国の丸亀出身であり、父は中間市の出身だったが、私が物心ついた時は、既に北九州市八幡西区に住んでいた。

 

私は、北九州市にあまり良い思い出はない。

子供の頃は、先史時代の遺物とも呼ぶべき『部落』があり、差別が平然と行われている一方、八幡製鉄所(現新日鉄)のおかげで、景気拡大が続いており、ヤクザを含めて日本全国から様々な人が集まってきていた。

 

小学校ではイジメが横行しており、私もいじめの対象にされた経験がある。何よりも酷かったのは教師で、あからさまなえこひいきをする教師もいた。特に部落出身者の女の子に「臭い」と言って、他の子供が観ている前で、服を着たままの女の子に頭からホースで水をかける男子教師がいると思えば、地元の病院の息子には、テストで一番の成績でもないのにべた褒めし、五段階評価でオール五を与える女教師がいたりと、やりたい放題だった。

 

中学生の頃は、マンガの世界でしか知られていないような番長が幅をきかせており、他校との喧嘩にいそしんでいた。どこかの番長の派閥に属していないとイジメが酷かったので私もひとつの派閥に所属していたが、所属する前までは弁当に雑巾の絞り汁や腐ったヤクルトを入れられた経験がある。

 

また、環境破壊が進んでおり、洞海湾は、オレンジ色に変色し酷い悪臭と奇形魚が釣れるような状態であったし、電車で移動し、黒崎駅に降り立つと思わず呼吸するのを控えるくらいの悪臭が漂っていた。

昭和40年代のことである。

 

父が42歳で、私が中学二年の時に肺がんで亡くなり、私は早期の就職を目指して、高専に進学し、環境省のレンジャーを目指して受けた国家公務員試験に合格したことから、昭和55年に国家公務員となった。

全国、時には国境を超えて、異動を繰り返し、外国人の奥さんをもらったが、労働組合腐敗と政治の停滞に嫌気がさし、将来の起業を視野に入れて、公務員を早期退職。

妻の地元であるボリビアで中山間地農業を始めたが、家族のゴタゴタと母の体調不良により、再び北九州市へ戻ってきた。

 

再び北九州市に戻り住み始めてすぐ、私が子供の頃は環境は最悪だったが、まだマシだったと思い知らされた。あちらこちらで商店街がゴーストタウン化し、夕闇が訪れると、外国人と思しき娼婦がその商店街の一角を占める。

明るい未来を思い描くには辛い地域だ。

もう60歳に手が届く私が、再起する道を探すのは難しいだろう。

 

9月には母の永代供養を高野山で行うことになっている。

これが終われば、ボリビアに戻るための資金を稼ぐため、再び北九州を離れることになる。

そうすれば、この私の「ふるさと」に、戻ってくることは、もうないだろう。